音楽と生活と私

音楽や日常や映画やドラマついて主に語るブログです。

夜来香ラプソディが教えてくれたこと

こんばんは。

 

今日のお昼の公演で、夜来香ラプソディを観てきました。

 

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先に一言。

 

…めちゃくちゃ良かったです。

もう、素晴らし過ぎました。

去年、フェイクスピアを観た時も最後は立ち上がって死ぬほどスタンディングオベーションしましたが、今回もでした。

 

ただ、今回はあまりにも共感する部分が多すぎて、序盤から涙が止まらない止まらない。

初めて音楽劇を見たんですけど、初めてがこの劇で本当に良かったと思いましたね。

むしろ、最初がこれだと次回以降が不安なレベルです。

あまりに、クオリティが高過ぎました。

 

これからこの舞台を観る方がいるかもしれないので、先にちょっと注意を…。

この先、多少ネタバレが入りますので、読まないようにしてほしいです…!

 

大丈夫ですかね?

 

 

 

 

 

 

 

行きますよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、いうことで、夜来香ラプソディ。

この舞台は、1945年の終戦間際の上海。

楽家服部良一日本兵として招集された先で出会う現地の人々と、戦火が迫る中、敵も味方も関係なく音楽会を開こうとする話なんですけど。

もう、この設定の時点でなんて素晴らしいのだろうと思うわけです。

で、これ実話をベースにしてるんですよ。

すご過ぎないですか?この時点で泣きますよ。

 

もう最初に服部良一さん役の松下洸平さんが笑顔で出てきた瞬間に、ウワー!ってなりました。

音楽が大好きな人だ、音楽に愛された人だ、って一瞬でわかったからです。

そして、服部さんが指揮を始めて演奏がスタートして涙が止まらなくなるわけですよ。

 

なんだこの音楽は。

愛と希望が詰まってる。

戦争なんてくだらないことは忘れて、音楽を楽しむ人々の笑顔が浮かんでくる。

これが実話だったんだと。

もう、たまらない気持ちになるんです。

 

私は本当に何度も何度も、音楽に救われて生きてきました。

服部さんが劇中何度も言う「あなたも音楽に救われたことがあるはずです!」が刺さりまくりました。

音楽には戦争を止める力はない、だけど不思議な力がある。

今の日本に、世界に、聴かせたい。

この場所から音楽を届けたい、ってめちゃくちゃ思いました。

 

 

コロナ禍で、沢山の音楽ライブは「必要ない」と切り捨てられました。

ライブに行くと「頭がおかしい」と本気で思われた。

私はそんな世論がまだまだ強いあの中でも、ライブに行きました。大好きな音楽を浴びに。

悲しみの中で、それでも音楽を止めないために。

 

あれを経験している私たちだからこそ、この舞台が伝えようとしている「音楽の大切さ」が身に染みてわかるわけです。

 

音楽を止めてはいけない。

 

音楽には不思議な力がある。

生きる希望を与えてくれる。

 

夜来香ラプソディの中でも、登場人物全員が「生きよう」としていました。

音楽が嫌いな人はいなかった。

ただ、視野が狭くなってしまっているだけ。

むしろ、必死に生きようともがくほど、音楽という大事な戦友を見失ってしまうのかもしれません。

 

だけど、生きるために音楽は絶対に必要で、それがあるから私たちは明日を迎える楽しみがある。

夜来香ラプソディは、そんな大事なことに気付かせてくれる物語でした。

 

 

…ああ、もう一度あの音楽を浴びたい。

殺伐とした世界

こんにちは。

 

何度かここでも書いているかもしれませんが、私は昔から、頭がいっぱいいっぱいになると、考えていることを文章にして頭を整理しています。

今日は、それのMAXの状態だなと思っています。

 

土曜日の午後。

仕事がない分、少し冷静になれます。

だからちょっと、色々考えていることを吐き出そうと思います。

文章ぐちゃぐちゃになってたらすいません。

もう、あくまで備忘録です、気持ちの。

 

 

ということで話が飛びます。

最近、というか前からか、自分自身の感情を許せない人が多くなったと思いませんか。

 

いや、なんかこれだと書き方わかりにくいですね…

人のいけない部分に目を向けなきゃ耐えられないくらい、自分に対して嫌悪感を持ったまま生きてる人多くないですか、ってことです。

 

なんでしょうか…感情の潔癖症的な感じですかね?

人に常に正しくいて欲しいと思ってしまう、めちゃくちゃ残酷なことを要求してしまうというか。

それは無理なのに、やろうとして出来なくて苦しくて、それが出来ない人を叩いて安心してる感じ。

 

大なり小なり、生きてる限り、絶対に悪い感情は持っているはずなのに、それを自分が認められない。

認められないから、それを表に出してしまう人を必要以上に叩く。

お互い顔を知ってるならまだしも、見ず知らずの人にすら汚い言葉をぶつける。恐ろしい事だと思います。

 

でも、人を叩く人って、自分を叩いているのと同じだろうと思うんです。

だから、結局全然自分は楽にならない。

そもそも、嫌悪感を抱くのは、少なからずその感情に身に覚えがあって、それがわかるからなんじゃないかとも思うので。

まあ、推測ですけども…。

 

少なくとも、私も誰かに憎しみを覚える時は、なにか自分が過剰反応してる時なので、多分大事に隠してる感情なんだと思ってます。

トラウマか、それとも自分の欲望か、それはわかりませんが。

 

ただ、どちらにせよ、お互いに直接言葉を伝えられる環境でない限りは、一方的に傷つける言葉をぶつけるのは、ルール違反だなと。

正義の味方ぶって、自分を守りたいだけの行為にしかならないと思うわけです。

まあ、守れていないと思いますが。

 

どんなことがあっても、どんな感情を持っても、自分をそのまま認めることが出来れば、わざわざ直接会ったことのない人に汚い言葉を使う必要なんてない訳ですから。

思い通りにいかない人生のストレスを、誰かに汚い言葉をぶつけるなんてしょーもないことで発散するなと。

 

そもそも、思い通りにいかないのは、思い通りにしようとしてるからだと思うんですけどね。

 

人も、いやなんなら自分でさえも、思い通りになんて動けない。

苦しんでる。みんな。みーんな、苦しんでる。

それは、生きてる限りずっと続くし、逃げられない。

だから、自分を認めて、宥めながら、自分っていう感情の乗り物を乗りこなそうと日々葛藤してるわけです。

 

人によって感情の荒れ具合は様々で、場合によってはとんでもない暴れ馬で振り落とされて、蹴飛ばされて、傷ついて、立ち上がれなくなってる人もいる。

自分に自分で失望してしまう人もいる。

 

だけど、それでも、自分だけは自分を認めてあげてほしいんです。

生まれた瞬間からずっと付き合ってきた感情なんだから、認めてあげてほしい。

誰かのことを気にしてる暇があったら、自分が心から喜ぶことをしてあげてほしい。

美味しいもの食べるでもいいし、好きな映画や漫画やアニメを見るでもいい。

 

人の生き方に一丁前に口を出して、自分から目を逸らさないでほしい。

何を感じてもいいけど、でもそれを本人にぶつけないで、自分で消化してほしい。

消化する中で、自分の感情をちゃんと理解してあげてほしい。

それが、自分が大切にしているもの。それが分かったらそれで良いじゃんかと。

 

みんな、そんなに綺麗に生きなくていいのに、あまりにも世の中がそれを求めているから、生きづらい。

私も生きづらいなって感じたことはめちゃくちゃあるけれど、それでも生まれてしまったからには、なんとか視野を広げながら生きていきたいと思うんですよ。

 

みんな、地獄の中を一緒に生きている人間じゃないですか。

一見、どんな苦しみを抱えているか分からない、どんな過去があるか分からない。

だけど、必死に生きてるんですよ、みんな。

勿論、自分も。

 

もっと、みんな自分の人生ちゃんと見て生きれる世界であればいいですよね。

私も、こうやって頭を巡らせている時点できっと、現実から離れようとしてるんだろうから。

 

 

殺伐とした世界を生き抜くための秘訣を、ずっと探しています。

正しい選択肢

夜中に更新しています。

現在、0時57分です。

明日は仕事だというのに。

 

なんだか、モヤモヤして眠れない日が続いています。

いろんなことを考えすぎているんだろうな〜とはわかっているんですけどね。

どれから整理したらいいかな、と迷っています。

 

なので、ブログを更新してます。

私は、いや、多分みんなそうなんだろうなとは思うんですけど、起きている間は常に考え事をしています。

そして大体が、今考えてもどうしようもないじゃん、という類の考え事です。

今日の夜ご飯どうしようかな、とかも考えてはいますが、圧倒的にめちゃくちゃ面倒なことの方を考えています。

 

例えば、今は過ちについて考えています。

あ、私の過去の過ちというより、そのものについてです。

人って、なんで間違ってしまうんだろう?という根本的なことです。

…ほらね、今考えてもどうしようもないじゃないですか笑?

 

でも、ちょっとでも暇な時間があると、いつもこんなことを考えてしまうんですよね。

歩いてる時、ご飯作ってる時、洗濯物干してる時、いつでもすぐその思考がスタートしてしまうんですよ。アホですよね。

だから、いつもは音楽やらドラマやら映画やらゲームやら、そういう集中できることをして、自分の無限の思考から離れたりしてたんですけど、寝る時って離れられないじゃないですか。

ということで、寝れないですよね。

 

この現象は、ほぼ確実に疲れている時に起きます。

ようは、現実逃避したい時です。

今関係ないことを深く考えることで、現実の問題から離れようとしてるんですよね、多分。

テスト勉強しなきゃいけないのに、部屋の掃除を始めるのと同じです。

あれの無意識バージョンというか、さらに止められないバージョン。

 

今、特に頭にあるのは「過ち」についてですが、これについて考えて始めてしまった原因はあります。

今の情勢や、私が知る界隈で、そういうことを考えざるを得ない出来事が起きたからです。

詳しくは書きませんが、どちらも私の力ではどうすることも出来ないことは確かです。

だから、本当に、もう今は離れてもいいでしょ?って思います。

だけど考えてしまうのは、もうクセです。

 

人はいつも正しくはいられません。

ペットボトルのゴミをしっかり洗わずに捨ててしまったり、仕事終わりの電車で椅子に座れたら眠たいからと席を譲らなかったり、そういう正しくはないことを、誰もが一度はしたことがあるんじゃないかと思うんです。

言わないだけで。私は今言っちゃいましたが。

これでドン引きした方がいたらすいません。

 

でも、そういう過ちを常にしている場合と、過去にしてしまったけれど、もうしないぞと決めている場合がある。

もちろん、犯罪レベルのことをしていれば、裁かれるべきだと思います。

けれど、そのレベルまではいかない言葉や行動を過去分全部調べ上げて、正しいことをしていない!と批判するのは違うんじゃないかと思うわけです。

 

私は勿論全然完全な人間ではないので、特に言葉にはめちゃくちゃ注意しています。

私の発言で何か思うことがあったらすぐに言ってほしいと後輩にも先輩にも言うし、友達にも、勿論家族にも言っています。

それで実際に「その言葉はどうなの?」と言われたこともあるので、すぐに謝ったり。

ありがたいなと思うと同時に、私はこういう関係性を築けていないと、多分いつでも裸の王様になってしまうんだなという怖さも感じます。

 

多分、過ちって、身近な人達とこういう関係性がないか、価値観があまりにも近過ぎる人達が集まるから生まれるんでしょうね。

だからこそ、人間関係は常に気をつけるべきで。

だけど、自分だけではどうしようもない場合もある。背景を考える必要もあると思うんです。

 

その言葉、その行動をした背景。

それが過去の出来事なら尚更。

今も同じ価値観を持っているかなんて、その人にしか分からないわけですから。

だから、闇雲に「正しくない」ことを責めるのもちょっと違うなって。

 

結局のところ何を言いたいかというと、誰も自分の全てに責任をとることはできないし、人に常に正しくいて欲しいと願うこと自体が間違いなんだよ、ということですね。

とか言って、未来の私がこの言葉自体を非難するかもしれませんが。

 

とりあえず私は、今少しでも自分の信条に基づく正しいことを選択できるように、選択するスキルを磨き、そもそもの選択肢を増やして生きようと思います。

幸せになるための苦労

こんばんは。

 

最近ずっと家にいます。

最後に電車乗ったの1ヶ月くらい前です。

リモートワークOKになった瞬間から、ずっと家にいます。

 

なんか、外に出るのがめちゃくちゃ億劫になってしまって。

まあ、家でいっか、みたいな感じになってるんですよね。

家でも映画とかドラマとかゲームとかして、現実からちょっと離れて過ごせば、なんとなく時間は過ぎていくので。

ですが、その思考はまずいなぁと思う訳です。

 

だから、最近は積極的に音楽を摂取しています。

やっぱり私の原点は音楽にあるなぁと思っているので。

 

ちなみに、今聴いている音楽の種類には大きく二つありまして。

幼少期に聴いていた音楽と古い洋楽です。

 

幼少期に聴いていたのは、基本的に日本の音楽でして、最近よく聴いてるのは、斉藤和義の「歩いて帰ろう」です。

おそらく、初めて親にねだって買ってもらったCDです。

ポンキッキーズが大好きだったもので、そのエンディングテーマだったこの曲も大好きだったんですよね。

 

ちなみに、買ってもらったのはポンキッキーズのテーマ曲のアルバムだったので、車で流してもらう時はいっつも「歩いて帰ろうにして!」ってワガママばかり言っていました笑

私の他の姉妹も歩いて帰ろうが大好きだったので、そこらへんで文句を言われることはなかったんですけど、親からしたらずっと同じ曲なのは嫌だっただろうなと笑

 

でも、そのワガママをきいてもらっていた時代の気持ちって、今の私を救ってくれてるなと思います。

何もできない、何も成し遂げていない、そんな私でも、ワガママを言って許される環境があって、認められていた、その時代。

大人になると、何もできない人間ではいられない訳ですから。

必ず責任を果たさなくてはいけなくて、それができなければ容赦なく排除されてしまう。

自分が何者なのか、分からなくなってしまうんですよね。

いまのままじゃいけない、かわらなくてはいけない、っていう呪縛は多分これから先もずっとあって、変わらないと思うんです。

だけど、変わらない自分でいれた時代の音楽を聴くと、少しだけ私が認められている気持ちに戻れるんです。

別に戻りたいってことはないんですけど、なんか心が疲れてしまうとそうあったかい気持ちに触れたくなっちゃいます。

 

 

あともう一つ。

古い洋楽については、完全に星野源のおんがくこうろんの影響です。

私が生まれる前に生まれた素晴らしい音楽達を作った人を紹介してくれるんですけど、これが本当に素晴らしくて。

 

今更知らないなんて言えない、とか思ってなんとなく聴けていなかった音楽達を特集してくれるので、すっと入ってくるんですよね。

 

今日放送があった、Earth, Wind & Fireの話なんか本当にめちゃくちゃその良い例で。

名前はもちろん知っていたんですが、しっかり曲を知らなくてですね。

今回は曲を共同で作ったアリー・ウィルスの特集だったんですけど、曲が作られた背景を知るとまた曲の聴こえ方も変わってきます。

 

黒人がまだまだ今よりもっと差別されていた時代、その文化、音楽を愛し、曲が作られて、その価値観を伝える舞台の曲も作ったアリー。

もう、最高じゃないですか。

モータウンが作り上げた音楽の素晴らしさは、時代を超えて感動を届けてくれるんですね。

 

ただ、皮肉なことに音楽の文化が生まれている場所は、歴史的にも差別が激しく、悲しみや苦しみ、怒りの感情が渦巻いてることが多いんですよね。

素晴らしい音楽は、マイナスな感情から生まれるから人々の心を捉えるのかもしれませんが、幸せで仕方ないぜ!って人や地域から生まれた素晴らしい音楽が少ないなあと思うので、複雑な気持ちにもなります。

 

ところで、このブログを書く時、黒人と書くと差別に繋がるのか?とか、アフリカ系アメリカ人って書いたほうがいいのか?とか色々調べたんですが、まだこの問題には答えが出ていないようでした。

なので、このブログでは黒人と書きますが、それくらい繊細な話題なんだなと改めて思いました。

これも含めて、まだ解決は全然していないんですね。

同じ人なのに、なぜこんなに分断が起きてしまうんでしょうね。

 

今、まさにウクライナではその問題が起きているので、考えてしまいます。

 

幸せになるために生まれてきたんだから、幸せになるためにだけ、苦労したいですね…

ステージ衣装は似合わない

こんばんは。

 

突然ですが、やれるだけ、って、めっちゃ便利な言葉ですね。

 

私はついつい、自分や周りの人に対して使ってしまうのですが、そのせいで「無理して頑張らないといけない時に、チームのやる気が削がれちゃうじゃん」と思われることもあります。

使い方難しいですね。

 

でも、今までの人生、そう自分に言い聞かせて、ここまで来たんですよね。

毎日しんどいなー嫌だなーと思いながら生きてる中でも、来週はライブ!だとか、来月は映画!だとか、誤魔化しながらなんとか。

 

ただ、そうやって誤魔化し過ぎて、今どこにいるのか、ちょっと分からなくなってきた今日この頃。

大きく変わりたい、とか言った次の更新がこれってどうなんだよと思いますが。

 

自分の周りでいろんなことが変わっているせいで、自分の立ち位置がわからなくなってきているのかもしれません。

去年から生きる場所を変えたから当然なんですけど、常に上を向いて生きてたせいで、ちょっと息切れしかけてる感じですかね。

 

 

あ、またこんな文章になってますね。

気持ち悪いですね、回りくどくて。

この感じ、なんだろう?って思ってたんですけど、思い出しました。

 

 

中学生の頃、とある方の文章の書き方に憧れてたんです。

とにかく文章がきれいで、スマートに見えたんですよね。

言うならば、文章のステージ衣装みたいな感じです。

 

その書き方に憧れすぎてですね、文章に対してめちゃくちゃカッコつけるようになってしまったんですよ。

あ、カッコつけるというか、極論言うと頭いいですよ、みたいなそんな書き方を真似る、と言ったほうが正しいかもしれないです。

 

でもそれって、ステージ衣装でスーパーに買い物行ってるみたいなもんなんです。

その文章に対して、その言葉に対して、自分の精神年齢が追いついてなくて、めちゃくちゃ気持ち悪いんですよね。

私は一体、何に対してカッコつけてるのかなぁって恥ずかしくなりまして。

 

文章には、どうしてもその人の下心が見え隠れしがちですが、それをどうしたら削ぎ落とせるのでしょうか…。

こう見られたいとか、こう思われたいとか。

 

ご飯食べないで写真撮ることに必死になるなんて、勿体ないじゃんとか思ってたインスタ映えとかとやってること変わらないじゃないかーって、自分にがっかりしました。

今更すぎますが。

 

だから結局、私はスタート地点に戻っただけかもしれません。

 

でも、大きく変わるために必要な後進だったのなら、仕方ないですね。

何もないところからのスタートなら、プレッシャーも少し減るかもしれないですし。

 

文章の書き方から、変えていきます。

大きく変わると書いて大変

あけました、おめでとうございました。

 

 

明日から仕事です。

こうやってまた、日常生活に戻っていくんですね。

毎年毎年これ経験してますけど慣れないです。

社会人になってからまあまあ経ちますけども。

 

とりあえず、非日常と日常の繰り返しの中で、少しでも楽しいことを探しながら生きていこうと思います。

毎日が同じことの繰り返しだと、生きていることに絶望してしまいそうなので。

 

 

あ、2022年をそんな生活にするために、最近考えていることがあるんです。

 

それは、手放すことです。

 

 

これまでの人生の中で沢山の大切なことがあって、どれも手放したくないなと思っているんですが、多分そろそろ何か手放さないと新しい何かを手に入れることが出来ないなと感じていまして。

手がいっぱいいっぱい。

 

たとえば、目に見えるモノで言うと、もうずっと着ていないライブTシャツとか、CDとかDVDとか。

私を作ってくれたものではあるけれど、今はもう手放してもいいと思えるモノ。

 

見えないモノで言うと、私が無意識のうちに決めたルール。

たとえば、私はこれが好きだったはず、私はこう考えてこうしたはず、みたいな。

私の思考を無意識に縛っているモノ。

これも確かに私を作ってきたモノだけど、今の私にはもういらないかなと。

 

それをずっと手放さないでいるとなんだか、私が執着してるみたいで…言葉を選ばずにいうと、きもちわるいなぁって思うんですよね。

感性を自分から潰しにいってるみたいで。

 

新しい何かを取り入れて生きなきゃ、私はすぐに飽きてしまうんですよ、生きることに。

あ、決してとりあえず流行りものに飛びつきたいとかそういうことではなく。

自分が「ん?」と思うものがあったら、すぐにそっちに舵を切れるように、身軽にしときたいって意味です。

 

…多分、ロッキンの時の荷物くらい。

肩からタオルさげて、斜めがけのショルダーに飲み物と財布入れて、くらい。

そんで、良い音楽が聴こえるほうにふらっと行けちゃう感じの。

夕焼け見ながらコーラ飲んで、ふぅって一息つきながらフジファブリックが聴きたい。

あ、これしたことありました笑

 

という感じの、そういう身軽さで生きたいんですよね。

極論、国に税金だけ納めて、あとは全部決めないくらいの気持ちでいたい。

 

去年は行きたい場所、会いたい人に会いまくって予定をギチギチに詰めてたので、今年はそれをちょっと緩やかにして、自分のために時間を使おうと。

自分が何をしている時が幸せなのかは、ある程度わかったので、今年は逃げずにそれに立ち向かおうと思っています。

 

こんなことをわざわざ書くのは、私はアホなので書かないとすぐ忘れるからです。

あとで読み返す為に書いてます。なので、完全に備忘録ですね。

本当に意識しなきゃ、確実に私は去年と同じ生き方をしてしまいますから。

去年と同じ生き方するなら、2022年じゃなくて2021年αみたいな感じになっちゃいますからね。それならもう生きなくていいじゃんってことになりますし。

 

ああ、そういえば、去年と同じで思い出しました。

 

紅白歌合戦が歴代最低視聴率だって騒ぐニュースが出てましたが、なにそれ大成功じゃん!と思いました。

去年と違うことしてましたもんね。それについて来れなかった人たちが離脱して、視聴率下がったんですよね。

なら、大成功じゃないですか?

ずっと同じこと続けて、だんだん視聴率下がっていくよりずっといいじゃないですか。

まあ、そもそも視聴率が番組の質に直結する時代はもう終わってるとは思いますけども…!

とりあえず、しばらくは視聴率視聴率言われると思うのでとりあえず。

 

ただ、とにかく私は、現状からなんとか変わろうとしているモノや人を馬鹿にする風潮が大嫌いなんですよね。

自分で変われもしない人が何を笑ってんだアホか、と思ってしまうんですよ。

 

ただ、この言葉を目を見て人に言えるほど、私はまだ実行できてないんです。

変われていない。

だから、ここで書いているんです。

 

いつかのインタビューで、「今年は大変でした。大きく変わったので。」と綾野さんが言っていたんですが、それを2022年の12月に言えているように、頑張ろうと思います。

 

 

よーし、変わるぞー。

紅白歌合戦を見ながら

こんばんは。

 

今、紅白歌合戦を見てます。

2021年があと30分ほどで終わります。

 

いや〜、今年は本当に早かったです。

私史上一番大変な一年でした。

でも、その分かなり変われた一年でもありました。

 

好きなことはなにか。

何がやりたいのか。

誰と働きたいのか。

どうやって働きたいのか。

 

それを、人生で一番考えた一年でしたね、間違いなく。

なんなら、生きる意味は?みたいな、壮大な一生答えが出ないことまで考えました。

 

そこまで考えられたのは、やっぱり大好きな音楽や映画やドラマがあったからだなと思います。

それがなかったら、現実に押し潰されて、もうダメだって気持ちで目の前が真っ暗になってただろうなと。

生きるために戦うっていう決意をもらいました。

 

生きにくいから、芸術に救われる。

生きにくいから、幸せに気付ける。

生きにくいから、明日こそはと思える。

 

音楽も、映画も、ドラマも、それをひたすら伝えるためにあるものなんだと思います。

 

あ、もちろん、アニメも小説も漫画も。表現するものはすべて。

 

紅白歌合戦を見ながら、そんなことを考えています。

 

…紅白、最後の曲が始まりました。

ということで、2021年もありがとうございました。

 

愛が作り出す作品に幸あれ。

沢山の素晴らしい作品をありがとう。

2022年も沢山の愛に出会えますように。